“あたかも当事者であるかのような代理表象的擬装は、当初から回避される一方、何もできないという当たり前の前提を受け入れつつも、だから何もしないというシニシズムに陥っていないことが重要である。もちろん、そう簡単にこの問い(=「演劇にやるべきことはあるか?」)に答えられないことくらい戸田は十分に承知していて、だからこそ、両手両足を縛るという人工的な身ぶりにおいて、表象としての上演を可視的に封鎖しつつ、また、観客に何かを訴える/感得させるという演劇の美学的前提も文字通り横に向けながら、「他人の記憶を生きること」の不可能性そのものを上演するのである。”
2005年9月公演「敗れた希望/ステーション」評
『舞台芸術09』(京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター 発行)
「不可能性の時代」の演劇(二)--〈Jという場所〉と近代芸術という制度について- 内野 儀 より
“あたかも当事者であるかのような代理表象的擬装は、当初から回避される一方、何もできないという当たり前の前提を受け入れつつも、だから何もしないというシニシズムに陥っていないことが重要である。もちろん、そう簡単にこの問い(=「演劇にやるべきことはあるか?」)に答えられないことくらい戸田は十分に承知していて、だからこそ、両手両足を縛るという人工的な身ぶりにおいて、表象としての上演を可視的に封鎖しつつ、また、観客に何かを訴える/感得させるという演劇の美学的前提も文字通り横に向けながら、「他人の記憶を生きること」の不可能性そのものを上演するのである。”
2005年9月公演「敗れた希望/ステーション」評
『舞台芸術09』(京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター 発行)
「不可能性の時代」の演劇(二)--〈Jという場所〉と近代芸術という制度について- 内野 儀 より